親父(父)は90才、お袋は(母)まで生きた。18歳で家を出て、その後一緒に生活できなかった。横浜と愛媛じゃ遠すぎるよな~、二人とも看取れなかった事、少し後悔している。
どもども、横浜のかんいちだよ!!関内一二郎(せきうちいちろう、略してかんいちなんです!いちろーでもいいし、かんちゃんでもいいよ!)
それと、はてなブックマークしていただいた貴重な1人、有難うね!!
18才に家を出て横花に土着、親父お袋とは住めなかった
かんいちは18才で高校卒業して、最初は京都の大学、次の年受験しなおして神戸の大学に通う事になった。親元離れてそれから親父お袋とはいっしょに生活することはなかった。
親父、お袋との別れには涙は出なかった
人間が冷酷なのかどうか知らないが、親父お袋が亡くなった時、涙も出なかった。晩年親父とは毎日携帯で話していたせいか、長寿で、病気で晩年苦労もしないで逝ってしまったせいかな・・・
お袋は、少し具合が悪くなって寝ている時に、親父と親族がお見舞いに来ている時にふっと逝ってしまい。そのあと親父は7年一人で生活することになった
一人と言っても、幸い弟夫婦と同居していたので、かんいちとしては凄く心強よかった。弟はケアマネで病院勤め、奥さんが看護師だったのでなおさら心強かった。
親父の晩年は毎日電話で話をした
お袋が亡くなった後、親父は家に一人で留守番、孫たちと犬の一緒に生活していたのだけど、孫も大きくなって実家を離れると、昼間は一人で一言も話をしない時もあるって言っていた。
それでも愚痴も文句も言わない出来た親父だった。お袋が亡くなった翌年かな、そういう話を法事の時に聞いて、横浜に帰ってから携帯のらくらくホンを買って親父に送った。弟に設定して説明してもらい、毎日5分でも電話で話ができるようになった。
仕事の合間や、ちょっと空いた時間があると、毎日親父との会話が始まった。親父が電話の最後に毎回いうんだな~~、電話有難うね!って・・・・
話す内容って毎回同じ話が多かったのだけど、へ~~とか、ほ~とか、そうなんだ!なんて相槌打ちながら聞いていた。初めて聞くような内容も多くて、お袋とのなれそめとか、デートの様子や戦争に出兵する前の話とか、就職のこととか、設計の仕事の事とか、面白い初めて聞くような話もいっぱい聞けた。
多分人生のうち、親父と話した時ってこの時が殆どだったかもしれない。
電話をね、楽しみにしてくれていたのがよくわかった・・・・
親父は何が幸せなの?
親父は何が幸せなの?って何度も聞いた。タバコを吸わない、お酒も飲まない、膝も少し悪くなっていた、晩年の5年は透析で週三日病院通い、白内障で目もあまり見えなくなっていたようだ。
楽しみは、自転車にのって近くのスーパーに生き、店内をうろちょろするのと、TV。
親父の答えはね、いつも決まってこう答えた、
平々凡々が一番!!
兄弟3人(かんいち、妹、弟)がちゃんと結婚し家庭を築いて、孫も7人で来た。こんな幸せなことはない。
ってね・・・・
かんいちが年金もらえる年になり、子供二人が結婚し、孫が4人。みんなそれなりに生活をしている。まさに平々凡々一家。
親父が言っていた、平々凡々が一番幸せだ!
って言葉の意味が今ようやく少し理解できそうだ。
父の日、便りがないのはいい便りなんだけど・・・
子供たちも、孫が生まれて大きくなり、家族の生活に没頭し始めるとともに、便りがなくなってくる。子供は親離れ、父、母は子離れができて、それぞれの生活に・・・・
だから、便りのないというのはいい便りなんだろうなって家内と話している。とはいっても、娘一家はしょっちゅう来るには来るのだけど、カレンダーが孫中心になるのは致し方なし。
何も起こらない、つまり、平々凡々な生活、人生が一番幸せ!
なんだなと思った、父の日であった。
僕よりも若いあなた!
プレゼントをお父さんに贈れとは言わないけど、「や、元気?」って電話の一本でもしてあげるといいよ。今日やらなかった人は明日でもいいからね・・・
貴方の元気な声が、一番のプレゼントだと思うよ。
かんいちは電話着たら照れくさいけど、やっぱうれしいよね・・・・・!(^^)
じゃね、ハッピー父の日!なんちゃってね・・・・
by父の日のかんいち