かんいちのドッキドッキ年金生活

ドッキドッキする年金生活のライフスタイル、家計費の断捨離はいかに?

7月7日は七夕、七夕飾りが懐かしい年金生活者、短冊に願い事なんて最近流行らないか?横浜の七夕祭りはどこがいいかな?

f:id:sekiuti:20170708031011j:plain

 

7月7日は七夕だ。年金生活者のかんいちの子供のころの懐かしい記憶がよみがえってくる。イベントの少ない愛媛県の実家では、夏休みが始まる前の一大イベントだった記憶がある。短冊に願い事を書いて、もうそうだけに飾り付ける。郷愁がよみがえるね~~!最近は、出不精になり、地元駅近くの商店街主催の七夕祭りを歩くだけになってしまったな~~!平塚か仙台にでも行きたいもんです。

 

どもども、横浜のかんいちだよ!!関内一二郎(せきうちいちろう、略してかんいちなんです!いちろーでもいいし、かんちゃんでもいいよ!)

ヨモギ (id:mm_greenonion)さんコメントありがとうね!!感謝(^_-)-☆

 はてなブックマークしていただいた13人のみんな、有難うね!!

 

 

七夕まつりって郷愁を呼ぶが地味なイベントだよね

かんいちの七夕まつりって、地元の駅近くの商店街のこじんまりとした七夕祭りを徘徊するのが恒例となってしまった。

 

2,3分歩けばもう突き抜けてしまう(^-^;

もともとが京急沿線って地味な商店街ばかりだから、盛り上がらない。金沢区って人口20万近くもいるのだけど、街自体がベッドタウンなので商店街の商業施設は地味なんですね・・・

 

 

 

七夕祭りの由来は?

ウイキペディアより参照

七夕

(たなばた、しちせき)は、中国日本韓国ベトナムなどにおける節供節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。旧暦では7月7日のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦以降、お盆が新暦月遅れ8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいはそれらの前後の時期に開催されている。

 

日本の七夕の歴史は?

日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。

「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[3]

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会[4])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[5]。その後、平城天皇7月7日に亡くなると、826年天長3年)相撲御覧が別の日に移され[6]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[5]

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[7]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[8]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[9]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではな

 い。

 

日本の七夕祭りの原型は?

1687年貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。

現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。

また、青森の「ねぶた」や「ねぷた」、秋田の「竿燈」などの「眠り流し行事」も七夕祭りが原型である。

 

 

横浜ではやっぱ平塚の七夕祭りだね!

7月7日、8日、9日までやってるよ!かんいちは仕事で行けない。残念・・・(^-^;

 

湘南ひらつか七夕祭りのサイトはこちら・・・

 http://www.tanabata-hiratsuka.com/index.html

 

かんいちの師匠の七夕の記事はこっちね!

wasumasyo.com

流石師匠、ロマンチックやね~~(^^♪

 

 

横浜市の七夕祭りも面白そう!

kodomotoasobo.pbchi.com

 

これはいってみてもよさそうだな~~!

3番の赤レンガの七夕祭りのサンクスキャンドルがロマンチックでいいかもね。浴衣着てうろちょろとするのもいいかもしれない。帰りに関内でいっぱい・・・(^^♪

 

 

 

老後の年金生活者は七夕まつりとは縁がないようだ!

友人や、近所の人に聞くが子供も大きくなると、老後の年金生活者って七夕祭りの話題ってあまり出ない。残念なことだ。ま、人の事は言えないけど、かんいちもそんな感じだね!

 

でもさ~、こういう時にこそ、夫婦二人でお揃いの浴衣を着て闊歩するってのも粋でいいよね。来年、家内と相談して、赤レンガ倉庫あたりを徘徊して見ようかな?渋い大人の魅力なんて受けないかな?

 

折角時間があるのだから、忘れかけていた、子供のころのイベントを大人流に楽しむイベントにして色々計画してワクワクドキドキしたいものだ。幸い、どっかに浴衣が仕舞っていたように思う。お袋が作ってくれたような記憶がある。

 

引っ張り出して、着てみようかな?

 

みんなは、七夕まつりはどうしたのかな?

 

by郷愁を呼ぶイベント大好きなかんいち

 

   >>>>前回のブログ  

sekiuti.hateblo.jp